真っ昼間ガール

ただの日記

とりあえず

人の生活に組み込まれる楽しさを知ったのは、その頃だった。25歳、酸いも甘いも噛み分けきれなくて、手頃な道しるべがほしいお年ごろ。自分の人生に人を巻き込む甲斐性はなくて、他人の生活の一部にされるくらいがちょうどよかった。


坂本さん、は、五反田の製薬会社で働いていた。目によくなじむ顔で、顔の細部までを至近距離で見ても違和感を感じることが一度もなかった。久々にそんなものに出会えたことが嬉しくて、何年も使い込んだ枕みたいなその顔をまじまじと見てからよくキスをしてた。それが、本当に好きだった。
出会ったのは新宿、深夜3時。終電を逃して駆け込んだお店でやけになって蘇州夜曲を歌っていたら、たまたま隣に座ってた坂本さんがグレンフィデックをおごってくれたのでした。10も上だったし、指輪をしてたのも気づいてたけど、まあこんなこともあるかぁ、くらいでなかよしになったのがまずかった。自分が、一度はまると天か地どちらかに転ぶまで抜けられない気質だったのを忘れてた。


最初に2人だけで会った日は、昼からどしゃぶりで少しいらいらしていたのを覚えてる。朝、予報を見ずにおろしたてのスーツに7㎝のヒールを合わせた自分を呪いながら、坂本さんと待ち合わせした神楽坂に向かっていた。金曜、夕方、17時。仕事を終えるには少し早い時間だったけど、お互い外仕事だったのをよいことに、世の中より一足先に週末へ突入したのだった。
「そのスーツ、OLD ENGLANDの新作?よく似合ってる」
駅前で落ち会って開口一番、坂本さんはそんな言葉をくれた。そう、この人は人が喜ぶ言葉を心にねじ込むのがとても上手だった。その日、坂本さんの指から指輪は消えていた。
「お世辞でもうれしいです。でも、よくOLD ENGLANDなんて当てられますね。私の年代だとまず着ないのに」「こないだhommeが復活したから、たまたまショップを覗いてて」
この時点で天気によるいらいらは消えている。坂本さんは、そろそろ行こうか、と私の手を取って坂を上りはじめた。その一連の仕草には一切の無駄がない。この人はいったい何千万年前から人の手を握り続けているのだろうと思った。

坂本さんが好んで通う古い酒場に入った。お酒は一種しかなく、声を立てると店主に怒られる。注文する時は、がらんと鳴る鈴で。空調設備がないから、室温も天候まかせ。制限があるほうが飲酒という行為に集中できるという考えらしい。でもそんなことが気にならないくらい、目になじむ顔を真正面にして飲むお酒はとてもおいしかった。

帰り道、雨はあがっていた。おいしいお酒を飲んだ後は、少しさみしい気持ちになる。その気持ちを紛らわすため坂本さんの手にすがりながら歩いていたら、神楽坂の石畳にヒールをひっかけて靴がぽろんとぬげた。それが何かの合図だったかのように、坂本さんがわたしの目を見つめて言った。
「僕についてくる?」

うん、ちょうどそんな誰かがほしかった。気づいたら片方裸足のまま、全力で抱きついてた。

 

まぁ、そんなことがうっかり起こってしまうから東京は怖い。恋は、はりぼての全能感を引き連れてやって来る。

.

.

.